阿部慎之助といえば巨人のレジェンドで将来の監督候補です。しかし若手時代には清原軍団や投手陣の前で苦労苦悩の連続でした。
最高の笑顔見せてくれ慎之助明るく逞しく 導けよ永久に
阿部慎之助の苦労!最悪の清原和博軍団との関係!肩や守備を批評
打って守れるチームの顔
出身地 千葉県浦安市
生年月日 1979年3月20日
身長体重 180 cm 97 kg
投球・打席 右投左打
ポジション 捕手、一塁手
プロ入り 2000年 ドラフト1位(逆指名)
初出場 2001年3月30日
年俸 1億6,000万円(2019年)
経歴 安田学園高等学校→中央大→読売ジャイアンツ (2001 – )
20代のプロ野球選手が憧れた選手に阿部慎之助を上げる選手は本当に多い。
巨人 丸佳浩
「松井秀喜さん。あと僕が小学校6年生の時かな。阿部慎之助さんが巨人に入団されました。僕はソフトボールをやっていたんですけど、キャプテンで背番号が10、右投げ左打ちで捕手だったのでピッタリで。東京ドームで阿部さんのリストバンドをつけて応援していました」
DeNA 上茶谷
「子どものころは巨人ファンでした」と告白。夏休みなどに親戚らと一緒に上京し、東京ディズニーランドや東京ドームに行くのが楽しみだったという。当時、熱烈に応援していたのが、巨人の4番打者だった阿部。
阿部慎之助の若手時代の苦悩
阿部はエラーも多く、リードもお粗末といわれていました。
打撃は一年目にしてはそこそこでしたが守備面がお世辞にも良いとは言えなかったので、一部を除き投手陣をはじめ野手から総すかん、全く信用されていなかったのですね。
阿部が出したサインに投手が首を振りまくる、サインを無視するなどは当たり前でした。
阿部に親切だったのは上原や高橋由伸など一部の人間だけだったとも言われています。
マスコミにもバッシングにあい、勝てなかったのは阿部の責任だと一人責任押し付けられる形で叩かれ、長島監督の退任も彼のせいにされました。
最悪の清原軍団からかわいがり
清原和博は、2005年8月4日に広島市民球場で行われた広島戦では前代未聞の騒動も引き起こす。試合前に打順が7番であることを当時の山本功児ヘッドコーチから伝えられた清原は納得せずに激怒します。
清原和博は左ひざ痛となり苦悩しました。
復帰をしましたが、打順は7番でした。入団1年目の86年、西武で7、8番を打って以来19年ぶりの経験だったのです。
堀内監督は打撃好調の阿部を6番にそのまま置いたことで、ブチ切れしました。
ベンチでおもむろに携帯電話をかけながら、受話器の向こうの相手に「今日な、7番やで!7番! 阿部(慎之助捕手)より下や!」とこれ見よがしに記者の眼前で叫んだ。
そのときの阿部といえばまだ20代半ばであり、球界のスーパースターであった清原からこのようなセリフを言われたことでどれだけ傷ついたのか。。。
苦労から阿部慎之助の日本シリーズでの涙
阿部慎之助の日本シリーズといえば2012年で4番キャプテンでの日本一のイメージが強いかもしれませんが、10年前の2002年では2年目の正捕手でした。メンバーは下記ですからね。今では考えられない個性の強いメンツです。素直ではありません。
巨人 | ||
---|---|---|
打順 | 守備 | 選手 |
1 | [左] | 清水 |
2 | [遊] | 二岡 |
3 | [右] | 高橋由 |
4 | [中] | 松井 |
5 | [一] | 清原 |
三 | 川相 | |
6 | [捕] | 阿部 |
7 | [三]一 | 江藤 |
8 | [二] | 仁志 |
9 | [投] | 上原 |
前途のような苦悩もあり、優勝をする瞬間に涙をながしています。下記がその動画です。
まとめ
阿部慎之助は将来監督となる人間ですが、このような苦しみがありました。小林誠司も苦労していますが、きっと報われると信じたいと考えています。